関東大震災と行商 その3 農の「商い」・行商への道程(『我孫子市史 近現代編』から)
第四編 水辺の民の暮らし
第三編 手賀沼の人びと
農の「商い」・行商への道程
我孫子市域の農家の主婦達は、都市生活者の暮らしに対応すべく、野菜を売り歩くことで「銭とり」に精を出す。谷中・千住・金町・亀有・本所・浅草・深川・小岩・小松川・日暮里・南千住などは、明治中期まで東京府下の中心的近郊農業地帯であり、府下の農産物の五五%を生産していた地域であった。明治七年の『府県物産表』にもとづく「全国府県別野菜生産額」によれば、全国の野菜の生産額は約一一〇〇万円、東京府は生産額では全国六一府県中第一五位だったが、農業者一人あたりの生産額は全国平均七七銭というなかにあって、四円七七銭という飛び抜けた額で一位を占めていた。ちなみに千葉県は生産額でこそ第一〇位で東京より上位であったが、一人あたりの生産額をみると五七銭と平均を下回る低い状態だった。この農業者一人あたりの生産額のトップを占めていた東京府下の農業地帯は、明治二〇年代から三〇年代にかけて化学肥料の輸入、石油の輸入、綿の輸入等で大きく様相を変えはじめた。在来作物が衰退し、殖産興業の柱、近代紡績が発展するにつれて、農家の有力な副業であった綿糸家内工業を現金獲得の手段から脱落させていったからである。こうして興業・工業化の波をかぶった主力農業地帯からは農作物が徐々に消えていった。南千住・日暮里・三河島・高田・尾久・巣鴨・王子などの米麦を中心とする農産物供給地農村だった地域での、米麦蔬菜類の生産のなくなりかたをみると、年を追うごとに農地が消え、都市に変貌していくさまがうかがえる(表4-5/省略)。かわりに、その外周にあった農村、我孫子市域が属する東葛飾郡のような農業地帯が、京市中に、あるいは新しく都市化したかつての農業地帯に、農作物を供給する新たな近郊農村として登場するようになったのだった。
明治七年の『府県別物産表』では、千葉県産のおもな野菜として人参・大根・里芋・茶を挙げているが、明治二一年の『東京農事調査』によると、東京市場に下総から入り込んでいる農産物は、甘薯・胡瓜・茄子・西瓜・真瓜・冬瓜・玉蜀黍・黍・菜豆・蚕豆・漬け菜・小松菜・白瓜・桃・繭の一六品が列記されている。
我孫子市域の野菜果実の作付けもに見られるように明治三〇年代には一六種であったのが、四三年には三九種に増加し、その傾向は昭和三五年に六四種となるまでに増加している。このようすは、東京府下の農業地帯から農作物・が消えていく下降線と交差するように上昇カーブを描いており、表4-5と比較すると農作物供給地の交替のさまがはっきりと見てとれる。我孫子市域の耕地種目別面積をみると、明治三七年の反別は、我孫子町の田三〇九町、畑三五四町二反、湖北村の田一九九町三反畑三五六町六反、布佐町の田一六四町三反畑一八八町二反といずれの地区も畑が田を上回っている。それらの畑地の大部は、水の被害を受けにくい台地にあったため、換金性の高い野菜栽培を拡大する余地が十分にあったのである。
寄せてくる都市文化の波
都市の肥大化は、その外側の地方農村にとって今まで遠かった都市がすぐそこまでやってきたということになる。それは、都市のもつ商品文化が日常生活のなかに身近なものとして入り込んでくることでもあった。たとえば手間暇かけて織ってつくり上げた着物よりスマートで着心地のよい既成のものが目の前にあらわれる。便利で洒落た付加価値がたくさんついた雑貨、家具、道具、出版物が手を伸ばせば届くところにある。金さえ出せばすぐに手に入る。農村への都会的風俗、商品、文化の流入のようすは、増田実の日記のなかにも読みとれる。大正期の家計の記述によれば、それまでこの地域の一般農家にはそうそう見られなかった品々が日常生活に登場している。それらは、ペン先、墨汁、英和辞典、各種単行本、雑誌、六法全書、通信講義録、用箋、呉服太物、メリンス着物、手袋、襟巻き(子供用も)、帽子(子供用も)、ズボン、ジャケット、シャツ、靴下、靴、こうもり傘、天丼、カツレツ、カレーライス、ラムネ、バナナ、葛餅、柱時計、懐中時計、腕巻時計、貼り薬、化粧クリーム、観劇、活動写真、写真、ガラス、その他洋品類等への支出である。衣食住はもちろんのこと、精神生活の部分にも大きな浸透を見ることができる。これは新しい豊かさを期待させる生活のはじまりであり、生活水準を引き上げるものであった。そこには多くの金銭を必要とする暮らしが展開している。こうした商品・貨幣消費生活に拍車をかけたのは、流通における交通・運輸の発達だった。
成田線・常磐線の開通とともに
生鮮農産物の流通は、生鮮であるがゆえに範囲はかぎられていた。蔬菜類を近場の青果市場に運送して仲買問屋に売却する一方、市街地に近接する農家では、荷車をひき、下肥の人糞汲み取りを行うついでに、朝採りの新鮮な野菜を販売することなどで重要な現金収入を得ているものが多かった。本来なら産業が勢いを増すと生産物や消費物が増え、都市には人口が集中増加し、生活水準も向上し、食生活も様変わりし、一汁一菜から副食物、とくに生鮮野菜の需要が量的にも質的にも高められていき、その需要を満たすために供給する地元農家の収入も生産高も上がっていくはずであった。しかし、鉄道の発達は、遠方から短時間に新鮮な野菜類を届けることを可能にしたため、他地域からの蔬菜類を流れ込ませることとなった。そこで販路を確保するためには、自地域のみで消費していたときとは異なり、作物に新たな商品価値を付加することが求められた。また、地域間の競争原理も導入されることになり、よりよい商品の生産が期待されることにもなった。こうした農業競争の激化は農民一人一人が本格的にかかわりをもつ〝農業の商い化〟を誕生させたのだった。
明治二九年には常磐線が、明治三四年には成田線が開通した。それまで我孫子市域から東京府下など遠方に出るには、徒歩、馬、駕籠、人力車、あるいは船、蒸気船が交通手段であった。それが鉄道開通により一挙に一時間あまりで大消費地東京に行けるようになったのである。
湖北村の行商組合長であった大木佐一(明治四三年生・我孫子市湖北)は東京行野菜行商の発生を昭和五二年に次のように証言している。
成田線が開通すると同時に、この近在で売れるんだから、東京ならもっと売れるんじゃないかって、もう亡くなられたが五、六人が相談して、最初は卵だけ持って、東京へ行商したら評判が良くて、今度はあれ持ってきてくれ、これ持ってきてくれって。そこからはじまったんです(「湖北村の行商」『市史研究』第三号)
事実行商の先駆けとなった卵の販売は、資金の要る養蚕や製茶には手が出せない多くの一般農家にも可能だった。養鶏はこの手賀沼縁の農家ではどこでも行っていたからである。それまで年寄りの小遣い稼ぎとされていた鶏卵は、以後野菜行商者にとって欠かせない重要な商品のひとつになっていった(表4-7/省略)。
新たな課題・肥料の払底
こうして収益を優先させる農業の営みは、蔬菜づくりが盛んになればなるほど、収量をあげるために肥料の購入を促した。肥料の消費が高まり、出費がかさむにつれて政府は、明治四三年以降堆肥舎の建設、堆肥の製造を奨励してきたが、大正六年の『増田実日記』でも、肥料の騰貴に悩み、沼の藻取り、水辺の草刈りに追いまくられていることが綴られている。大正八年には「肥料の需要蓋し偉大なるものあり。昨年まで施肥する者少なかったが今年は施肥しないものが希である」と記している。大正八年の東葛飾郡誌の肥料調査を見ると、一戸平均年間肥料代が一〇〇円とされている。一反あたりの肥料代は一〇円にもなる。単純計算で米一〇俵に相当する(表4-8/省略)。一〇〇円は当時の水門工事の一日の労賃が六〇銭であったことから換算すると、一六六日分の稼ぎに相当する大出費であった。沼縁の人びとは下肥の共同購入を行い、堆肥の生産にも励み、村の産業組合も肥料の共同購入を行った。多くの小作人を抱える相島新田の地主井上家も毎年開催する小作人慰安会に肥料会社の技師をまねいて講演会を開くなど、肥料対策に腐心していた。それまで春に田の肥料を買い、その代金は秋取り入れた米で支払い、秋には麦用肥料を買い、支払いは翌年の夏に行うとしていた購入の仕組みは、米麦の価格相場が激しく乱高下するために、相場をにらみながら売り買いすることが不得手な農民にとって不利になることが多くなった。このことを増田実は、昭和一一年に「すべて肥料は事情の許す限り現金にしくはなく、米穀交換は彼等米商に二重の利を得られ、且つ先高を見越すことは絶対不可なり」と記述している。蔬菜を売って銭を稼ぐ、そのために肥料がいる、その肥料代のためにもっと蔬菜を売らなくてはならないという構図のなかで、百姓は行商への期待を高めもした。
家の身上を支えるカカたち
鉄道が開設されるまで、布佐や取手、布川、我孫子等の地元町場の料理屋や旅籠、大店や大家に食べ残りの野菜、竹林で採れたタケノコ、自飼いの鶏卵、沼で漁した魚を荷車や籠で売っては「砂糖買うゼニ稼ぐべ」「祭りが来っから豆腐買わねくちゃ、油揚もいんべ」「カツオの半分も買わねば」と歩いていたカカたち、嫁たち。その足は常磐線・成田線が開通すると東京に向かったのだった。鍬を握っていた手を籠の背負い紐にもちかえて、農家の主婦たちが行商組合をつくり、最盛期には毎朝三〇〇〇人以上が東京へ野菜を搬出する、日本の農村全体から見ても特異な、行商で支える農業がはじまったのだった(表4−9)。
昭和元年から行商をはじめた我孫子町本町の行商専業者飯泉よし(明治三六生)は我孫子の行商起源を次のように証言している。
我孫子で最初に始めたのは高野山の四人ですって。大正の初めのことです。その人たちの話では、その当時東京に行ったはいいけど、だれも行商なんか知らなくて四人共売れない。どうしようって相談して、仕方がないから籠を囲んで人目を引くように盆踊りをやろうじゃないかって、南千住の駅前の交番の前で始めちゃったんですって。そしたら何事かって人が集まってきて、そこで私たち田舎から出てきて自分で作った物持ってきたんだけど売れねえから、ここで踊ってんだ、買ってくださいって言って買ってもらったのが始まりだそうです。
当時農家の主婦たちは、冠婚葬祭や病気見舞いなどよほどのことでもなければ、自分の村や町から出ることは皆無に近かった。往時を振り返って、同じく昭和元年頃から行商をはじめた我孫子市中峠の飯野ナツ(明治三一年生)と先の谷次ナカは行商者の心境をこう語っている。
初めて行商に出るときは、それまで東京に一回も行ったことねくて四時頃起きてまず家の者たちのご飯炊きやった。一一月でまだ寒くもねえのに、ガタガタガタガタ、東京がおっかなくて震えてんだから。まぁ、行く前の晩なんか眠れねえよな。何処へ持ってって売ろうかだの考えてね。帰ってからお湯にへえったって汽車に揺られてるみてえで、寝たってフラフラしてんのがだよ。みんなが行商したってオレはやれねえなって思っちゃった。でもどうしても現金がいる。日銭がほしい。だからやった。とにかく、冬米ができて売るとかで一年に二回しか金の入るときがない。それが水害や日照りでなかなかにすんにも金が必要になっちまって。ゼニのためですよ。そのうえ肥料だって現金で買えば値切れる、安く買える。なんとかして我々が働いてゼニを稼ごう。そのためには畑の品物持って行って、あっちから金を貰ってこようって。でもなかなかお得意ができない。最初などせっかく買ってくれた家も、次の日はどこだかわかんない。それでも背負ってる荷を戻すのがいやだから、汗流して歩くでしょ。だから区域が広くなっちゃう。と、どこの家で何を頼まれたのかわかんなくなる。一ヶ月ぐらいは夢中でしたよ。なりふりなんかかまってられねえのよ。でもさ、売っちまうと嬉しくてね。「今なんどきになんね」って聞いて歩いてさ。時計持ってねえから。さぁ、帰りの汽車に乗りましょって駆けたもんです。よく言われたもんです。「オバさんたち東京の金持ってくから、東京は貧乏になっちゃう」って。
鉄道開設時に卵からはじまった行商、そこに野菜が加わり、沼の魚も、鳥も運ばれた。カカたちの背と両手に、一日約六○キロから一二〇キロの品物が東京で売られた。実際行商の稼ぐ日銭は、農閑期に男たちが河川工事や出稼ぎで稼ぐ日銭をはるかに上回ったのだった(表4−10/省略)。もちろん新鮮さが売り物のカカたちの東京行野菜行商が、東京の主婦たちの心と勝手口を開かせ、財布の紐をゆるめさせるのは並大抵なことではなかった。その苦労は「一口食べて貰うと、みんなうまいうまいって買ってくれるようになるけど、まず、そこまでいくのが容易でなかった」と多くの行商者が証言している。行商効果としておしゃべりが上手になったというほどに、訛りがあり口べたなカカたちには辛いスタートだった。世の中がゼニで動く時代になると、当然ゼニを出して買う方も商品の品定めが厳しくなる。買う方も売る方も〝お勝手を守る〟女同士である。行商者が蔑視されることもあったという(飯泉よし談)。
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