2023年8月7日月曜日

『千葉県の歴史』による「水平社」「関東大震災と朝鮮人虐殺」の記述

 『千葉県の歴史 通史編:近現代2』(2006年3月)

第一編 大正デモクラシーから政党内閣の終焉へ
第1章 大正デモクラシー期の千葉県
第三節 大正デモクラシーと関東大震災

一 さまざまなデモクラシー

 自由教育の実践(略)
 水鳥川安爾の自由教育(略)
 青年団・処女会運動の新展開(略)
 

 94頁
 水平社と部落解放運動

 江戸時代に幕府によって「えた」「非人」などと呼ばれる賤民身分に位置づけられ、苛酷な差別を受けてきた人々は、一八七一(明治四)年の「解放令」によって、その呼称が廃止され、身分・職業とも平民と同じとされた。しかし、実際にはその後も就職や結婚などでいわれのない差別が続き、被差別部落の人々は困窮した生活を強いられた。政府はそのような被差別部落の人々が、各地で米騒動に参加したことに衝撃を受け、一九二〇年代に入ると「同情融和」の立場から差別の解消をはかろうとする部落改善策に着手した。これに対して、第一次世界大戦後の世界的なデモクラシーの風潮や労働・農民運動の高まりのなかで、みずからの力 で差別からの解放を勝ち取ろうとする自覚をもった被差別部落の人々は、二二 (大正十一)年三月、全国水平社を結 成した。水平社は、「人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向って突進」することを綱領にうたい、「われわれがエ タであることを誇りうるときがきたのだ」と高らかに宣言した。これを契機に部落解放運動が全国各地の被差別部落 に急速に広がっていった。


 千葉県では、二三年末ごろから、東葛飾郡関宿町(野田市)において、水平社支部を結成しようとする動きが活発化した。同町は県最北端に位置し、利根川・江戸川の分岐点にあって、河川をはさんで埼玉・茨城両県に隣接しており、もともと対岸の地域と密接な交流があった。こうしたなか埼玉県水平社社員らによる積極的な働きかけもあって、翌二四年四月に同町の被差別部落の人々は大会を開催し、水平社支部の結成を決議した。しかしこのときは、区長が反対したため支部結成にまではいたらなかった。

 ところが、五月十三日、被差別部落の人々に対する自動車運転手の失言問題をきっかけに、差別糾弾運動が盛り上がり、十五日に四九名の賛成者を得て、千葉県水平社が組織されることになった。執行委員長杉本定吉 はじめとする役員が選出され、規約綱領も決定された。さらに九月二十五日、同町の小学校での児童のけんかに端を発した校長の失言問題がおこると、被差別部落の人々は関東水平社本部の支援のもと、同盟休校も辞さないとする強硬な差別糾弾運動を展開して、十月四日に差別撤廃講演会を小学校で開催した。 そして講演会後に町内で千葉県水平社の発会式が挙行された。

 関宿町が部落解放運動の中心となりえた理由としては、運動のさかんな埼玉県の水平社から大きな影響を受けたことに加えて、隣接する野田町 (野田市)で二三年に関東醸造労働組合の指導のもとに野田醤油の労働争議がおき、労働者として働いていた同町の被差別部落の人々が争議に積極的にかかわっていたことがあげられる。

 二三年三月に県が実施した調査によれば、県内の被差別部落の数は、千葉郡二、市原郡三、東葛飾郡八、印旛郡二、長生郡一、山武郡二、香取郡二、君津郡六、夷隅郡四、安房郡四の合計三四で、その戸数人口は五一八戸・三〇八七人であった。このうち、東葛飾郡の戸数人口は、二七三戸・一七三〇人で最も多かった。

 二五年四月の関宿町町会議員選挙において委員長杉本定吉が当選するなど、同町では一定の組織的活動がみられたが、他町村の被差別部落に対する積極的な宣伝活動や他の組織・団体との提携活動は行われなかった。また同年二月ごろ、群馬県水平社執行委員長坂本清作らが成田不動尊と宗吾霊堂に参詣したさい、印旛郡酒々井町の被差別部落の人々に水平社への加盟を勧誘したが成功しなかった。全県的にみると、東葛飾郡をのぞいて水平社による部落解放運 動が組織的に展開されたところはほとんどなく、関宿町の水平社支部の活動も二八(昭和三)年の終わりごろまでには事実上終息した。

 これに対し二九年三月、酒々井町では、「同胞相愛」の趣旨にのっとり、「尊皇護国」の大義にしたがい国運の進運 と国民精神の統一をはかることを目的として、町長芳太郎が会長となって融和団体昭和会が結成され、住宅改善、共同耕作地の設定、防火・衛生設備の完成などの事業を展開した。このことは、部落差別を解消する取組みにお いて、行政当局と町内有力者が一体となって主導する官民一体の融和運動が主流となったことを象徴的に示すものであった。


二 関東大震災の被害と朝鮮人虐殺
 地震の発生と被害(略)
 避難・罹災者の救護(略)
 復興への対応(略)

 104頁
 続発する朝鮮人虐殺事件

 九月一日の午後四時ごろから翌二日にかけて、東京・横浜地方の罹災者の間に、社会主義者や朝鮮人が暴動をおこし、各地で放火・暴行を行い、井戸に毒を入れているなどとする流 言蜚語が流布 した。県内でも、江戸川をはさんで東京に隣接する船橋・市川・松戸・千葉などでは、罹災者が数多く避難してきて おり、通信網が寸断され情報がとだえた状況のなか、うち続く余震におびえ、不安をかきたてられた人たちの間で、 この流言蜚語はまたたく間に広がっていった。

 三日午前には、寸断された通信網のなかで、残った数少ない通信施設であった東葛飾郡塚田村行田(船橋市)の 海軍無線電信所船橋送信所から、内務省警保局長名で各府県知事にあてて、「東京付近の震災を利用して朝鮮人が各 地に放火し、不逞の目的を遂行しようとしている。現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注いで放火する者がいた。すでに東京府下は一部に戒厳令を施行したが、各地においても十分細心な視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密な取締りを加えられたい」とする電報が発せられた。またこの日から総武本線が復旧して、列車の運行が再開されたことから、千葉以東・以南の各地へさらに避難民が押し寄せた。

 こうした事態に呼応して、各地で在郷軍人会・消防団・青年団を中心に治安の維持にあたる自警団が組織された。たとえば源村(東金市・山武市)では、四日に、村内各区長に対し、急報として「朝鮮人侵入に対する警戒方の件」を通達している。そこには、「本日、八街駅、日向駅で下車した朝鮮人は、いずれも行動 不穏で、捕えた者のなかには逃走した者もいた。このさい相当の 警戒を加え、あとで後悔しないように在郷軍人会、消防団、青年 団などと協定のうえ、配慮していただきたい」と記されており、 行政当局が自警団の組織化を積極的に主導していたようすがうか がえる。



 そして、この自警団が中心となり、各地で朝鮮人を殺害する事件を引き起こしていった。千葉県での自警団による朝鮮人虐殺 は、九月三日午後四時ごろ、東葛飾郡馬橋村(松戸市)馬橋停車場付近で、朝鮮人の男性六名を日本刀・槍・鳶口などで殺害した 事件、同午後五時ごろ、同じく馬橋村新作地内で男性一名を電柱に縛りつけたうえ鳶口で殴打殺害した事件を最初として、翌々日にかけて、表9にみるように流山町(流山市)・浦安町(浦安市)・我孫子町(我孫子市) 八坂神社境内・香取郡滑河町(成田市)停車場・船橋町(船橋市)警察署前・同町九日市・中山村(市川市)若宮北方十字路付近・千葉市であいつい だ。滑河・千葉の事件をのぞき、すべて東葛飾郡内で発生している。同郡は東京に隣接し避難者が多かったことも一 因であろう。

船橋町での事例

 船橋町は県内でも虐殺事件が多発したところである。九月三日、罹災者の収容所となっていた船橋小学校で、避難していた朝鮮人七名のうち一名が爆弾を所持していたとして警察に引き渡される事件が あり、これが四日にあいつぐ船橋での虐殺事件のひきがねとなった。事実は、爆弾ではなく「砲丸の模型の焼けたも の」であったが、この事件のうわさが住民の恐怖感をあおり、朝鮮人に対する虐殺へと駆り立てていったのである。 九日市(船橋駅北口付近)で四日に発生した事件は、北総鉄道(東武野田線)の敷設工事に従事していた朝鮮人労働 者が犠牲となり、 その数は政府調査によると三八名、目撃証言では、二十数名から五十数名とされ、県内最大のものであった。事件は、鎌ヶ谷町(鎌ヶ谷市)粟野の自警団が、沿線各地に設置された飯場を拠点に働いていた朝鮮人労働者を行田の海軍無線電信所へ連れて行き引き渡そうとしたが、門前払いされたため、船橋警察 署に連行する途中で発生した。

 当時船橋警察署に勤務していた渡辺良雄の回想によると、署長から「北総鉄道工事に従事していた朝鮮人が、鎌ヶ谷方面から軍隊に護られて船橋に来るが、船橋に来ると皆殺しにされてしまうから、途中で軍隊から引き継いで、習志野の捕虜収容所に連れていくように」と命じられ、数人の警察官と出かけたところ、天沼(船橋市海神)付近で一 行に出会った。そして引渡しを交渉しているとき、船橋駅付近で列車を止めて捜索していた自警団や、避難民の集団 に発見され事件がおきたという。そのようすはつぎのようであった。

警鐘を乱打して、約五〇〇人 五〇〇人くらいの人たち の人たちが、手に竹槍や鳶口などを持って押し寄せてきた。私は、ほかの人たちに保護を頼んで、群集を振り分けながら、船橋警察署に飛んでもどった。署に着いて元吉署長にその状況を 報告すると、署長から「警察の力が足りないのでしかたがない。引き返して、状況をよく調べて来てくれ」と命じられた。私がすぐ引き返していくと、途中で、「万歳!」「万歳!」という声がしたのでもう駄目だと思った。現場に行ってみると、地獄のありさまだった。保護にあたっていた警察官の話では、「本当に、手のつけようがなかった」とのことであった。調べてみると、女三人を含め五三人が殺され、山のようになっていた。

 習志野の捕虜収容所とは、県と陸軍とが協議して朝鮮人の「保護収容」施設として使用することにした陸軍の高津廠舎のことであろう。列車まで止めて、朝鮮人を探し出そうとしていたところにも、当時船橋の自警団がいかにいきり立ち、殺気立っていたかが伝わってくる。

 軍隊による虐殺事件

 流言蜚語が広がるなか、九月二日に東京市と東京府下の一部に戒厳令が施行され、三日神奈川県に、四日には埼玉・千葉両県にも拡大された。八日、関東戒厳司令官の福田雅太郎の名で発せられた告諭では、「罹災者がしだいにこの地方に入り込むにしたがって、いろいろな虚報流言が行われ人心を不安にするのを取り締まるのと、必要な場合には軍隊をもって治安を維持し救護にも従事するためである」と、戒厳令施行地域の 拡大の理由を流言蜚語の取締りと軍隊による治安維持にあるとした。同時に関東戒厳司令部は、朝鮮人に対する暴行 など「無法の待遇」をなすこと、朝鮮人が「悪い企てをしている」というようなうわさに惑わされることのないよう注意をうながした。これをうけ、成東町では同日、佐倉歩兵第五七連隊の将兵二〇名が来着し、自警団にかわって治安秩序の維持取締りに従事することになった。


 軍隊が治安維持を担当するようになり、自警団による集団的な虐殺事件は鎮静化に向かった。しかし、軍隊自身も虐殺にかかわっていた。表10は、司法省からの依頼により陸軍当局が調査した千葉県下の軍隊による殺害事件の事例をまとめたものである。これだけでも、習志野騎兵連隊所属の兵士らによって一二人の朝鮮人と八人の日本人が殺害されている。県内の部隊は、県外でも虐殺に関与していた。 習志野騎兵第一四連隊と市川町の野戦重砲兵第一連隊の将兵は、九月三日に東京府南葛飾郡大島町(江東区)で、約二〇〇人の朝鮮人(中国人との見方もある)を殺害してい るし、習志野騎兵第一三連隊の将兵は、五日に亀戸警察署内で労働運動家の平沢計七・川合義虎らを殺害した(亀戸事件)。十二日、僑日共済会会長として在日中国人の救済活動などにあたっていた王希天を、中川にかかる逆井橋(江東区・江戸川区)付近で殺害したも野戦重砲兵第一連隊の将校らであった。

 表10の事例は、いずれも「適法行為」として処理され、関係者はいっさい責任を問われなかった。たとえば、九月四日の南行徳村(市川市)における二つの事件は、騎兵第一五連隊の兵士が、朝鮮人を習志野の騎兵旅団司令部へ連行する途中に小石や棍棒で暴行されたため、やむをえず射殺したとされている。仮にこのような乱闘さわぎがあったとしても、それだけで殺害に正当性があったとはとうてい認められない。また、表10の事例だけが、県下の軍隊による虐殺事件のすべてではない。教員・地方公務員・学生らによって一九七八(昭和五十三)年に結成された 「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」は、関係者の聞取り調査や日記の発見などにより、習志野騎兵連隊が、朝鮮人を「保護収容」していた習志野収容所から「不逞」とみなした者を連れ出して殺害したり、千葉郡大和田町(八千代市)の諸集落に引き渡しそこの住民に殺害させた事実を掘り起こしている。

 また、朝鮮人に対してだけでなく、日本人が朝鮮人と誤認されて殺害される事件も発生した。東葛飾郡福田村(野田市)では、九月六日 に香川県から来ていた薬の行商人の一行一五名のうち、幼児を含む九名が自警団によって惨殺されている。一行は、被差別部落の人々であった。この事件は、聞き慣れない方言のため朝鮮人と間違われたことによるとされているが、近年「福田村事件を心に刻む会」などによって真相の究明が進み、行商人への差別的偏見やよそ者排除の意識が原因との見方も出されている。

 県内の自警団関係の事件については、朝鮮人六二名を殺害、日本人約七〇名を傷害ならびに殺害したとして、十月になって一六件が立件され、一五一名の容疑者が検挙収監された。事件は虐殺行為の加害者が特定できないことが多く、容疑者はその一部にとどまった。裁判も殺人事件であるにもかかわらず、懲役二、三年で執行が猶予される例が多く、殺人罪としては軽い判決であった。ここにも朝鮮人に対する拭い難い民族差別の一面をかいまみることができる。

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『千葉県の歴史 通史編:近現代2』(2006年3月)

大正から昭和戦前期までの本県の歴史を4編に分けて記述しています。
https://www.pref.chiba.lg.jp/bunshokan/contents/chibakenshi/no7.html

主な目次

序章
第一編 大正デモクラシーから政党内閣の終焉へ
 第1章 大正デモクラシー期の千葉県
 第2章 政党内閣下の千葉県と昭和恐慌
 第3章 満州事変と県政の転換
第二編 産業の発展と都市化
 第1章 成長する産業
 第2章 労働争議と社会運動
 第3章 教育・文化と暮らし
第三編 都市化の波及と農漁村社会
 第1章 農業生産の変遷と地主経営
 第2章 変貌する農村社会
 第3章 漁業と漁村の生活
第四編 戦争と県民
 第1章 軍郷千葉と翼賛体制
 第2章 戦時統制下の諸産業
 第3章 戦時色に染まる教育・文化と暮らし
 第4章 戦争末期の千葉県

東京新聞 こちら特報部に「検見川事件」掲載

 日本人が日本人を集団で殺害…関東大震災直後の忘れられた事件
現代に通ずる差別意識と偏見の暴走

2023年8月7日 12時00分

 人々に忘れられた虐殺がある。関東大震災直後に千葉県検見川町(現・千葉市花見川区)で、暴徒化した自警団に「不逞ふてい鮮人」と決めつけられ、沖縄をはじめとする3人の地方出身者が殺害された「検見川事件」だ。背景には、在日朝鮮人への蔑視にとどまらず、異質な存在それ自体に対する差別感情が見え隠れする。震災から間もなく100年。依然としてデマを妄信し、排他意識を振りかざす現代の日本人に与える教訓は大きい。(西田直晃)

記事の全文




関東大震災と行商 その4 千葉の〝オバさん〟誕生(『我孫子市史 近現代編』から)

 『我孫子市史近現代編』(2004年3月)
第四編 水辺の民の暮らし
第三編 手賀沼の人びと




244頁から

千葉のオバさん誕生

 その行商が〝千葉のオバさん"と愛称され、信頼を勝ちえたのは、大正一二年の関東大震災がきっかけだった。たんなるゼニ稼ぎの商いは災害罹災民の救済という大義で営まれていくこととなる。当時のことを、昭和二六年に成常青果協同組合が刊行した『行商発達史』のなかで、組合長藪崎梅吉が証言している。

 抑も当組合[成常青果協同組合]の前身成常行商組合が如何にして発足したかと申せば、大正一二年の未曾有の関東大震災の時からであって(略)帝都の近隣千葉・茨城県下の私達としては衷心哀悼の意を表した次第であます。其の震災見舞に上京する者は日々増加し、鉄道は不通にして大部分は線路づたいに、新鮮な野菜、又は鶏卵、淡水魚介等を籠箱等によって運び、近遠の親戚を衷心から見舞ったのでありました。然し近遠の親戚以外の他の一般帝都民も住むに家なく喰うに食なく中には餓死に瀕する者さえあり、日頃生産物を消費する帝都民に謝意を捧げるのは此の際と異口同音に立ち上がった農民は、連日新鮮な蔬菜類や鶏卵等を一般帝都民に供給し始めたのであります。日比谷公園、浅草公園、上野公園等で安価に立ち売り致しますと十貫、十五貫の品物は立ちどころに供給されたのであります。既に鉄道も回復されましたので一日に二回、三回と運び一般帝都民には非常に喜ばれました。

 斯して生産者から消費者への直結は益々深くなり、成田線の如きは各駅からの行商隊は日増しに増加する一方にて、各駅に於いても漸く統制の必要を痛感して各駅長さん方も行商隊と懇談的に統制を始めたのでありますが思う様にゆきませんので、遂に組合結成の声は鉄道側から叫ばれたのでありました。当時農村は不況時代であったし、益々激増する行商隊の車内整理には鉄道側も悲鳴をあげまして、行商隊の中堅層に対策の相談がありました。その結果結成されましたのが、当組合の前身であります。

 増田実も当時の状況を伝える新聞の一節を日記のなかに書き留めている。

 東京地方の罹災民に救恤すべき強制的寄付、自発的救恤は、追日旺盛を極め所謂有資階級の多額の救済は彼等罹災民の為に力あらしめたらんも、差当たり彼等の飢餓を救へたるは、地方農村より出たる物資供給、即ち米其他の簡易食糧の供給なるべし

 このときを境に、行商者の数が年々増加していった。昭和五年一一月の『国民新聞』ではそうした様相を報道した。

 不気味なまでに、底知れぬ不景気は、今や社会の各層をおびやかしているが、なかんずく米価・麦価・繭価その他農産物の惨たんたる下落に餓死線上をほうこうする全国農民の窮状こそ正視するにしのびないものがある。(略)行商女は、常磐・成田線沿線では、柏・我孫子・湖北・木下の各駅、房総沿線では、市川・船橋・幕張・稲毛からくるものがほとんど全部で、大概の者は一ヵ月、三ヶ月の定期券を持ち、朝一番から五番列車、時刻にして五時から八時頃の間に上京し、なかには団体をつくって貨車一車、二軍と借り切って、前夜のうちに荷だけを送っておくという方法をとっているところもある。

 行商範囲は、本所・南千住方面一帯にわたる。仲買の手を経ぬ直接取引であるから、運賃・汽車賃を加算した値段でも一般消費者にとっては市価よりはるかに安いので、自然にお得意ができて、一人当り二~三円の売上をなす者もあるらしい。

 これら女行商隊は、異様な風態のうえ、相当にかさ張る籠を持ち込むので他の客から迷惑がられている。

 (略)これは不景気が生んだ奇現象であり、一つの社会問題を提起するものである。

 この女行商隊のなかに飯泉よしが、飯野ナツが、谷次ナカがいた。しかし東京行野菜行商は、国民新聞が論じたように不景気が生んだ一過性の奇現象ではなかった。行商隊は、時代のなかでさまざまにその意味と役割を変容しながら継続されてきたのである。震災のとき、恐慌のとき、日中戦争のとき、戦争直後取り締まり強化のとき、高度成長期とそれぞれの時代に、カカたちは一人一人が知恵を絞って、独自のルートを開拓していく。各人ごとにそれぞれの行商があったのである。変わらなかったのは籠を背負って、都会の町中を売って歩くというの商いの方法であり、売り手も買い手も女たちであることだった。その行商がいかに沼縁の人びとの暮らしを支えていたか、村の本業である農業に影響をあたえていったかを増田実は日記のなかに認めている。

 昭和一〇年一二月三日(火)晴西北風稍々あり
 ……今、本村よりの行商は二百人を越えると云ふ。其の利益は一様でないが、平均二円と見て一日四百円、金が転げ込む理だ。女手仕事には極めて有利な仕事だ
 昭和一一年一一月三〇日(月)
 今や本村の東京行行商隊は二百有余を算し、一日五、六百円の金を都会より持ち来る。其の経済的価値は農業と相まって重要な生業となる。而かも婦人の手に依れば敢て本業も煩さず、且つ老初の自動的人員をも利用出来一挙両得である。全村五百戸の貧的農村はこれ故に更生の意気炎る 
 昭和一三年八月三一日(水)曇雨
 未曾有の大水後既に二カ月余、此間大して目立仕事も無く、行商の荷を拵う可く、殆んど蔬菜の耕作に注熱した。菜大根は意外の収穫を得。殊に白菜の間引物は、馬鹿に出来ぬ物である。六月下旬後間断なく播種、間断なく採収して、行商開始以来毎日欠く事な五十銭內外を収入、茄子に次ぐ行商主要物であった。然も今後も継続し得らる、見込。不成績なるはホーレン草にして、数回三四升程の種子を殆ど烏有に帰した。 
 夏播ホーレン草の耕作は、中々以って容易でない。尚幾多の研究を要する
 昭和一三年九月八日(木)晴一時曇
 暴風雨後蔬菜の高騰は著しい。東京小売相場茄子八ヶ乃至十ヶ、胡瓜四本乃至五本、白菜小東十銭(二五(ママ)十匁程度)其他脱被害物も一般に高調、品不足に畏怖すると雖も、五円内外の収入を得る。実に行商礼讃の時だ。二九(ママ)十円の預金、内二百円余は行商二ヶ月に依っての収益 
 昭和一三年九月三〇日(金)
 (略)茲に於て全部落は挙って東京に是等蔬菜を搬出すべく、行商を開始:新規開始十人:生活の様式は一大カーブを切って転換せられた。水害暴風雨に依る野菜の払底は、相場の暴騰となり売行き良好、最後のドタン場に頻せる吾部落も、是の行商に依って何やら生活の綱持ちこたいそう

 


 

関東大震災と行商 その3 農の「商い」・行商への道程(『我孫子市史 近現代編』から)

 『我孫子市史 近現代編』(2004年3月)
第四編 水辺の民の暮らし
第三編 手賀沼の人びと




231頁から抜粋

農の「商い」・行商への道程

 我孫子市域の農家の主婦達は、都市生活者の暮らしに対応すべく、野菜を売り歩くことで「銭とり」に精を出す。谷中・千住・金町・亀有・本所・浅草・深川・小岩・小松川・日暮里・南千住などは、明治中期まで東京府下の中心的近郊農業地帯であり、府下の農産物の五五%を生産していた地域であった。明治七年の『府県物産表』にもとづく「全国府県別野菜生産額」によれば、全国の野菜の生産額は約一一〇〇万円、東京府は生産額では全国六一府県中第一五位だったが、農業者一人あたりの生産額は全国平均七七銭というなかにあって、四円七七銭という飛び抜けた額で一位を占めていた。ちなみに千葉県は生産額でこそ第一〇位で東京より上位であったが、一人あたりの生産額をみると五七銭と平均を下回る低い状態だった。この農業者一人あたりの生産額のトップを占めていた東京府下の農業地帯は、明治二〇年代から三〇年代にかけて化学肥料の輸入、石油の輸入、綿の輸入等で大きく様相を変えはじめた。在来作物が衰退し、殖産興業の柱、近代紡績が発展するにつれて、農家の有力な副業であった綿糸家内工業を現金獲得の手段から脱落させていったからである。こうして興業・工業化の波をかぶった主力農業地帯からは農作物が徐々に消えていった。南千住・日暮里・三河島・高田・尾久・巣鴨・王子などの米麦を中心とする農産物供給地農村だった地域での、米麦蔬菜類の生産のなくなりかたをみると、年を追うごとに農地が消え、都市に変貌していくさまがうかがえる(表4-5/省略)。かわりに、その外周にあった農村、我孫子市域が属する東葛飾郡のような農業地帯が、京市中に、あるいは新しく都市化したかつての農業地帯に、農作物を供給する新たな近郊農村として登場するようになったのだった。

 明治七年の『府県別物産表』では、千葉県産のおもな野菜として人参・大根・里芋・茶を挙げているが、明治二一年の『東京農事調査』によると、東京市場に下総から入り込んでいる農産物は、甘薯・胡瓜・茄子・西瓜・真瓜・冬瓜・玉蜀黍・黍・菜豆・蚕豆・漬け菜・小松菜・白瓜・桃・繭の一六品が列記されている。

 我孫子市域の野菜果実の作付けもに見られるように明治三〇年代には一六種であったのが、四三年には三九種に増加し、その傾向は昭和三五年に六四種となるまでに増加している。このようすは、東京府下の農業地帯から農作物・が消えていく下降線と交差するように上昇カーブを描いており、表4-5と比較すると農作物供給地の交替のさまがはっきりと見てとれる。我孫子市域の耕地種目別面積をみると、明治三七年の反別は、我孫子町の田三〇九町、畑三五四町二反、湖北村の田一九九町三反畑三五六町六反、布佐町の田一六四町三反畑一八八町二反といずれの地区も畑が田を上回っている。それらの畑地の大部は、水の被害を受けにくい台地にあったため、換金性の高い野菜栽培を拡大する余地が十分にあったのである。

寄せてくる都市文化の波

 都市の肥大化は、その外側の地方農村にとって今まで遠かった都市がすぐそこまでやってきたということになる。それは、都市のもつ商品文化が日常生活のなかに身近なものとして入り込んでくることでもあった。たとえば手間暇かけて織ってつくり上げた着物よりスマートで着心地のよい既成のものが目の前にあらわれる。便利で洒落た付加価値がたくさんついた雑貨、家具、道具、出版物が手を伸ばせば届くところにある。金さえ出せばすぐに手に入る。農村への都会的風俗、商品、文化の流入のようすは、増田実の日記のなかにも読みとれる。大正期の家計の記述によれば、それまでこの地域の一般農家にはそうそう見られなかった品々が日常生活に登場している。それらは、ペン先、墨汁、英和辞典、各種単行本、雑誌、六法全書、通信講義録、用箋、呉服太物、メリンス着物、手袋、襟巻き(子供用も)、帽子(子供用も)、ズボン、ジャケット、シャツ、靴下、靴、こうもり傘、天丼、カツレツ、カレーライス、ラムネ、バナナ、葛餅、柱時計、懐中時計、腕巻時計、貼り薬、化粧クリーム、観劇、活動写真、写真、ガラス、その他洋品類等への支出である。衣食住はもちろんのこと、精神生活の部分にも大きな浸透を見ることができる。これは新しい豊かさを期待させる生活のはじまりであり、生活水準を引き上げるものであった。そこには多くの金銭を必要とする暮らしが展開している。こうした商品・貨幣消費生活に拍車をかけたのは、流通における交通・運輸の発達だった。

成田線・常磐線の開通とともに

 生鮮農産物の流通は、生鮮であるがゆえに範囲はかぎられていた。蔬菜類を近場の青果市場に運送して仲買問屋に売却する一方、市街地に近接する農家では、荷車をひき、下肥の人糞汲み取りを行うついでに、朝採りの新鮮な野菜を販売することなどで重要な現金収入を得ているものが多かった。本来なら産業が勢いを増すと生産物や消費物が増え、都市には人口が集中増加し、生活水準も向上し、食生活も様変わりし、一汁一菜から副食物、とくに生鮮野菜の需要が量的にも質的にも高められていき、その需要を満たすために供給する地元農家の収入も生産高も上がっていくはずであった。しかし、鉄道の発達は、遠方から短時間に新鮮な野菜類を届けることを可能にしたため、他地域からの蔬菜類を流れ込ませることとなった。そこで販路を確保するためには、自地域のみで消費していたときとは異なり、作物に新たな商品価値を付加することが求められた。また、地域間の競争原理も導入されることになり、よりよい商品の生産が期待されることにもなった。こうした農業競争の激化は農民一人一人が本格的にかかわりをもつ〝農業の商い化〟を誕生させたのだった。

 明治二九年には常磐線が、明治三四年には成田線が開通した。それまで我孫子市域から東京府下など遠方に出るには、徒歩、馬、駕籠、人力車、あるいは船、蒸気船が交通手段であった。それが鉄道開通により一挙に一時間あまりで大消費地東京に行けるようになったのである。

 湖北村の行商組合長であった大木佐一(明治四三年生・我孫子市湖北)は東京行野菜行商の発生を昭和五二年に次のように証言している。

 成田線が開通すると同時に、この近在で売れるんだから、東京ならもっと売れるんじゃないかって、もう亡くなられたが五、六人が相談して、最初は卵だけ持って、東京へ行商したら評判が良くて、今度はあれ持ってきてくれ、これ持ってきてくれって。そこからはじまったんです(「湖北村の行商」『市史研究』第三号)

 事実行商の先駆けとなった卵の販売は、資金の要る養蚕や製茶には手が出せない多くの一般農家にも可能だった。養鶏はこの手賀沼縁の農家ではどこでも行っていたからである。それまで年寄りの小遣い稼ぎとされていた鶏卵は、以後野菜行商者にとって欠かせない重要な商品のひとつになっていった(表4-7/省略)。

新たな課題・肥料の払底

 こうして収益を優先させる農業の営みは、蔬菜づくりが盛んになればなるほど、収量をあげるために肥料の購入を促した。肥料の消費が高まり、出費がかさむにつれて政府は、明治四三年以降堆肥舎の建設、堆肥の製造を奨励してきたが、大正六年の『増田実日記』でも、肥料の騰貴に悩み、沼の藻取り、水辺の草刈りに追いまくられていることが綴られている。大正八年には「肥料の需要蓋し偉大なるものあり。昨年まで施肥する者少なかったが今年は施肥しないものが希である」と記している。大正八年の東葛飾郡誌の肥料調査を見ると、一戸平均年間肥料代が一〇〇円とされている。一反あたりの肥料代は一〇円にもなる。単純計算で米一〇俵に相当する(表4-8/省略)。一〇〇円は当時の水門工事の一日の労賃が六〇銭であったことから換算すると、一六六日分の稼ぎに相当する大出費であった。沼縁の人びとは下肥の共同購入を行い、堆肥の生産にも励み、村の産業組合も肥料の共同購入を行った。多くの小作人を抱える相島新田の地主井上家も毎年開催する小作人慰安会に肥料会社の技師をまねいて講演会を開くなど、肥料対策に腐心していた。それまで春に田の肥料を買い、その代金は秋取り入れた米で支払い、秋には麦用肥料を買い、支払いは翌年の夏に行うとしていた購入の仕組みは、米麦の価格相場が激しく乱高下するために、相場をにらみながら売り買いすることが不得手な農民にとって不利になることが多くなった。このことを増田実は、昭和一一年に「すべて肥料は事情の許す限り現金にしくはなく、米穀交換は彼等米商に二重の利を得られ、且つ先高を見越すことは絶対不可なり」と記述している。蔬菜を売って銭を稼ぐ、そのために肥料がいる、その肥料代のためにもっと蔬菜を売らなくてはならないという構図のなかで、百姓は行商への期待を高めもした。

家の身上を支えるカカたち

 鉄道が開設されるまで、布佐や取手、布川、我孫子等の地元町場の料理屋や旅籠、大店や大家に食べ残りの野菜、竹林で採れたタケノコ、自飼いの鶏卵、沼で漁した魚を荷車や籠で売っては「砂糖買うゼニ稼ぐべ」「祭りが来っから豆腐買わねくちゃ、油揚もいんべ」「カツオの半分も買わねば」と歩いていたカカたち、嫁たち。その足は常磐線・成田線が開通すると東京に向かったのだった。鍬を握っていた手を籠の背負い紐にもちかえて、農家の主婦たちが行商組合をつくり、最盛期には毎朝三〇〇〇人以上が東京へ野菜を搬出する、日本の農村全体から見ても特異な、行商で支える農業がはじまったのだった(表4−9)。



 昭和元年から行商をはじめた我孫子町本町の行商専業者飯泉よし(明治三六生)は我孫子の行商起源を次のように証言している。

 我孫子で最初に始めたのは高野山の四人ですって。大正の初めのことです。その人たちの話では、その当時東京に行ったはいいけど、だれも行商なんか知らなくて四人共売れない。どうしようって相談して、仕方がないから籠を囲んで人目を引くように盆踊りをやろうじゃないかって、南千住の駅前の交番の前で始めちゃったんですって。そしたら何事かって人が集まってきて、そこで私たち田舎から出てきて自分で作った物持ってきたんだけど売れねえから、ここで踊ってんだ、買ってくださいって言って買ってもらったのが始まりだそうです。

 当時農家の主婦たちは、冠婚葬祭や病気見舞いなどよほどのことでもなければ、自分の村や町から出ることは皆無に近かった。往時を振り返って、同じく昭和元年頃から行商をはじめた我孫子市中峠の飯野ナツ(明治三一年生)と先の谷次ナカは行商者の心境をこう語っている。

 初めて行商に出るときは、それまで東京に一回も行ったことねくて四時頃起きてまず家の者たちのご飯炊きやった。一一月でまだ寒くもねえのに、ガタガタガタガタ、東京がおっかなくて震えてんだから。まぁ、行く前の晩なんか眠れねえよな。何処へ持ってって売ろうかだの考えてね。帰ってからお湯にへえったって汽車に揺られてるみてえで、寝たってフラフラしてんのがだよ。みんなが行商したってオレはやれねえなって思っちゃった。でもどうしても現金がいる。日銭がほしい。だからやった。とにかく、冬米ができて売るとかで一年に二回しか金の入るときがない。それが水害や日照りでなかなかにすんにも金が必要になっちまって。ゼニのためですよ。そのうえ肥料だって現金で買えば値切れる、安く買える。なんとかして我々が働いてゼニを稼ごう。そのためには畑の品物持って行って、あっちから金を貰ってこようって。でもなかなかお得意ができない。最初などせっかく買ってくれた家も、次の日はどこだかわかんない。それでも背負ってる荷を戻すのがいやだから、汗流して歩くでしょ。だから区域が広くなっちゃう。と、どこの家で何を頼まれたのかわかんなくなる。一ヶ月ぐらいは夢中でしたよ。なりふりなんかかまってられねえのよ。でもさ、売っちまうと嬉しくてね。「今なんどきになんね」って聞いて歩いてさ。時計持ってねえから。さぁ、帰りの汽車に乗りましょって駆けたもんです。よく言われたもんです。「オバさんたち東京の金持ってくから、東京は貧乏になっちゃう」って。

 鉄道開設時に卵からはじまった行商、そこに野菜が加わり、沼の魚も、鳥も運ばれた。カカたちの背と両手に、一日約六○キロから一二〇キロの品物が東京で売られた。実際行商の稼ぐ日銭は、農閑期に男たちが河川工事や出稼ぎで稼ぐ日銭をはるかに上回ったのだった(表4−10/省略)。もちろん新鮮さが売り物のカカたちの東京行野菜行商が、東京の主婦たちの心と勝手口を開かせ、財布の紐をゆるめさせるのは並大抵なことではなかった。その苦労は「一口食べて貰うと、みんなうまいうまいって買ってくれるようになるけど、まず、そこまでいくのが容易でなかった」と多くの行商者が証言している。行商効果としておしゃべりが上手になったというほどに、訛りがあり口べたなカカたちには辛いスタートだった。世の中がゼニで動く時代になると、当然ゼニを出して買う方も商品の品定めが厳しくなる。買う方も売る方も〝お勝手を守る〟女同士である。行商者が蔑視されることもあったという(飯泉よし談)。


2023年8月6日日曜日

関東大震災と行商 その2 行商列車に揺られて70年

 毎日新聞 2023/1/8

「最後のカラス部隊」が籠下ろす 行商列車に揺られて70年

 「蒸気機関車がポー、ポッポーって近づいてくるんよ」。茨城県利根町布川の石山文子さん(93)は懐かしそうに目を細める。駅ホームに設置された行商台から体重の2倍近くある籠を背負い、前かがみになり行商列車に乗り込む。東京・銀座の「最後のカラス部隊」が約70年間、毎朝繰り返した日常だ。新型コロナウイルスの感染拡大で休止して間もなく3年。「電車に乗らなくなって足腰が弱ってしまった。もう行けないよ」。石山さんはついに籠を下ろした。【堀井泰孝】

 1923年の関東大震災後、茨城や千葉の農民が野菜を担いで国鉄(現JR)常磐線、成田線で東京に通い、行商は広まる。戦後、東京の食糧難を補い、農家の現金収入獲得のために本格化。当時は米の売買が主流だったが、42年制定の食糧管理法で禁じられ、米の行商はヤミ米と呼ばれた……

上記のネット記事は、2023年1月15日の「毎日新聞」夕刊1面に掲載されました。




関東大震災と行商 その1 農村社会は〝閉鎖的〟か?

 「福田村事件を語る集い」では、関東大震災による東京の食糧難が、千葉県や茨城県の農家による行商が広がるきっかけだったと、「広報かしわ」(1975年10月15日)と柏市市史編さん室編集の『柏のむかし』(1976年)をもとに説明しました(資料p.22~25)。

 香川人権研究所は、事件にひそむ3つ問題点を指摘しています。
 ① 家族挙げて行商に出かけた背景には、大正時代の厳しい部落差別。 
 ② 行商への偏見。 
 ③ 朝鮮人差別。


  福田村事件げが起きた福田村と加害者を出した隣村の田中村は農村地域です。「福田村事件を語る集い」では、3つの問題点のうち「②行商への偏見」はなく、売薬行商人を喜ぶ地域であるという考え方を示しました。千葉県警察部のポスターの図柄をよく見ると、警戒をよびかけた対象は郊外住宅地に住む新興富裕層で、決して農村にはみえません。警戒対象は「不正行商人」と、わざわざ「不正」と明記してあります。

 集いでは配布した資料2の6~7ページ「2018年4月25日朝日新聞香川版」では「当時の農村社会は閉鎖的で、よそ者を排除する意識が強かった」と、根拠が示されずに決めつけのような文章が書かれています。

 福田村事件追悼慰霊碑保存会のブログに掲載される年表にをみると、現在までの真相調査の多くの成果は香川県関係者による1988年までの調査で判明しており、2003年以降は辻野弥生さんによる個人的な調査など以外には行われてこなかったように思われます。

 1988年3月3日「遺族・高畠氏と、十鳥氏(豊中町教委)三ツ掘現地、野田市役所・同教委訪問。事件真相解明の協力要請」などを除き、調査は香川県の研究者や行政が行っており、以降の千葉県側での調査の記録はほとんどありません。2001年3月23日に、香川調査団(遺族、真相調査会、部落解放同盟、香川人権研究所三豊郡1市9町行政)16名、千葉・刻む会6名柏市役所調査訪問も「主に柏市史関係について」と書かれたように、1975年の「広報かしわ」などには触れられておらず、調査の対象外であったものと思われます。

 関東大震災と行商の「その2」以降は、集い資料との重複にもなりますが、2003年の慰霊碑建立までに調べることのできたはずの「広報かしわ」などから、関東大震災を境に柏市地域と周辺地域で広まった行商―「カラス部隊」などとの呼称もある―の報道や市史などの記述を紹介します。