関東大震災と行商 その4 千葉の〝オバさん〟誕生(『我孫子市史 近現代編』から)
第四編 水辺の民の暮らし
第三編 手賀沼の人びと
千葉のオバさん誕生
その行商が〝千葉のオバさん"と愛称され、信頼を勝ちえたのは、大正一二年の関東大震災がきっかけだった。たんなるゼニ稼ぎの商いは災害罹災民の救済という大義で営まれていくこととなる。当時のことを、昭和二六年に成常青果協同組合が刊行した『行商発達史』のなかで、組合長藪崎梅吉が証言している。
抑も当組合[成常青果協同組合]の前身成常行商組合が如何にして発足したかと申せば、大正一二年の未曾有の関東大震災の時からであって(略)帝都の近隣千葉・茨城県下の私達としては衷心哀悼の意を表した次第であます。其の震災見舞に上京する者は日々増加し、鉄道は不通にして大部分は線路づたいに、新鮮な野菜、又は鶏卵、淡水魚介等を籠箱等によって運び、近遠の親戚を衷心から見舞ったのでありました。然し近遠の親戚以外の他の一般帝都民も住むに家なく喰うに食なく中には餓死に瀕する者さえあり、日頃生産物を消費する帝都民に謝意を捧げるのは此の際と異口同音に立ち上がった農民は、連日新鮮な蔬菜類や鶏卵等を一般帝都民に供給し始めたのであります。日比谷公園、浅草公園、上野公園等で安価に立ち売り致しますと十貫、十五貫の品物は立ちどころに供給されたのであります。既に鉄道も回復されましたので一日に二回、三回と運び一般帝都民には非常に喜ばれました。
斯して生産者から消費者への直結は益々深くなり、成田線の如きは各駅からの行商隊は日増しに増加する一方にて、各駅に於いても漸く統制の必要を痛感して各駅長さん方も行商隊と懇談的に統制を始めたのでありますが思う様にゆきませんので、遂に組合結成の声は鉄道側から叫ばれたのでありました。当時農村は不況時代であったし、益々激増する行商隊の車内整理には鉄道側も悲鳴をあげまして、行商隊の中堅層に対策の相談がありました。その結果結成されましたのが、当組合の前身であります。
増田実も当時の状況を伝える新聞の一節を日記のなかに書き留めている。
東京地方の罹災民に救恤すべき強制的寄付、自発的救恤は、追日旺盛を極め所謂有資階級の多額の救済は彼等罹災民の為に力あらしめたらんも、差当たり彼等の飢餓を救へたるは、地方農村より出たる物資供給、即ち米其他の簡易食糧の供給なるべし
このときを境に、行商者の数が年々増加していった。昭和五年一一月の『国民新聞』ではそうした様相を報道した。
不気味なまでに、底知れぬ不景気は、今や社会の各層をおびやかしているが、なかんずく米価・麦価・繭価その他農産物の惨たんたる下落に餓死線上をほうこうする全国農民の窮状こそ正視するにしのびないものがある。(略)行商女は、常磐・成田線沿線では、柏・我孫子・湖北・木下の各駅、房総沿線では、市川・船橋・幕張・稲毛からくるものがほとんど全部で、大概の者は一ヵ月、三ヶ月の定期券を持ち、朝一番から五番列車、時刻にして五時から八時頃の間に上京し、なかには団体をつくって貨車一車、二軍と借り切って、前夜のうちに荷だけを送っておくという方法をとっているところもある。
行商範囲は、本所・南千住方面一帯にわたる。仲買の手を経ぬ直接取引であるから、運賃・汽車賃を加算した値段でも一般消費者にとっては市価よりはるかに安いので、自然にお得意ができて、一人当り二~三円の売上をなす者もあるらしい。
これら女行商隊は、異様な風態のうえ、相当にかさ張る籠を持ち込むので他の客から迷惑がられている。
(略)これは不景気が生んだ奇現象であり、一つの社会問題を提起するものである。
この女行商隊のなかに飯泉よしが、飯野ナツが、谷次ナカがいた。しかし東京行野菜行商は、国民新聞が論じたように不景気が生んだ一過性の奇現象ではなかった。行商隊は、時代のなかでさまざまにその意味と役割を変容しながら継続されてきたのである。震災のとき、恐慌のとき、日中戦争のとき、戦争直後取り締まり強化のとき、高度成長期とそれぞれの時代に、カカたちは一人一人が知恵を絞って、独自のルートを開拓していく。各人ごとにそれぞれの行商があったのである。変わらなかったのは籠を背負って、都会の町中を売って歩くというの商いの方法であり、売り手も買い手も女たちであることだった。その行商がいかに沼縁の人びとの暮らしを支えていたか、村の本業である農業に影響をあたえていったかを増田実は日記のなかに認めている。
昭和一〇年一二月三日(火)晴西北風稍々あり
……今、本村よりの行商は二百人を越えると云ふ。其の利益は一様でないが、平均二円と見て一日四百円、金が転げ込む理だ。女手仕事には極めて有利な仕事だ
昭和一一年一一月三〇日(月)晴
今や本村の東京行行商隊は二百有余を算し、一日五、六百円の金を都会より持ち来る。其の経済的価値は農業と相まって重要な生業となる。而かも婦人の手に依れば敢て本業も煩さず、且つ老初の自動的人員をも利用出来一挙両得である。全村五百戸の貧的農村はこれ故に更生の意気炎る
昭和一三年八月三一日(水)曇雨
未曾有の大水後既に二カ月余、此間大して目立仕事も無く、行商の荷を拵う可く、殆んど蔬菜の耕作に注熱した。菜大根は意外の収穫を得。殊に白菜の間引物は、馬鹿に出来ぬ物である。六月下旬後間断なく播種、間断なく採収して、行商開始以来毎日欠く事な五十銭內外を収入、茄子に次ぐ行商主要物であった。然も今後も継続し得らる、見込。不成績なるはホーレン草にして、数回三四升程の種子を殆ど烏有に帰した。
夏播ホーレン草の耕作は、中々以って容易でない。尚幾多の研究を要する
昭和一三年九月八日(木)晴一時曇
暴風雨後蔬菜の高騰は著しい。東京小売相場茄子八ヶ乃至十ヶ、胡瓜四本乃至五本、白菜小東十銭(二五(ママ)十匁程度)其他脱被害物も一般に高調、品不足に畏怖すると雖も、五円内外の収入を得る。実に行商礼讃の時だ。二九(ママ)十円の預金、内二百円余は行商二ヶ月に依っての収益
昭和一三年九月三〇日(金)晴
(略)茲に於て全部落は挙って東京に是等蔬菜を搬出すべく、行商を開始:新規開始十人:生活の様式は一大カーブを切って転換せられた。水害暴風雨に依る野菜の払底は、相場の暴騰となり売行き良好、最後のドタン場に頻せる吾部落も、是の行商に依って何やら生活の綱持ちこたいそう
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