2024年4月22日月曜日

第2弾 福田村事件に学ぶ

 


第2弾 福田村事件に学ぶ

~千葉県内の朝鮮人虐殺の真相に迫る~

日時 4月29日(月祝)14~16時 (13時半開場)
場所 松戸市市民交流会館(通称:すまいる)
   松戸市新松戸7-192-1 (南流山駅から徒歩15分)
定員 先着100名 資料代:500円
講師 平形 千恵子(ひらかた ちえこ)氏:千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会。共著に『いわれなく殺された人々ー関東大震災と朝鮮人』(青木書店、1983年)、ほか。
主催 福田村事件に学ぶ講演会実行委員会
後援 松戸市・松戸市教育委員会

4月29日、松戸市で平形千恵子さんの講演会があります。福田村事件の調査は、香川の真相調査会や千葉の心に刻む会より20年以上も早く、平形さんたちがたずさわりました。

主催の実行委員会は、映画「福田村事件」に触発された松戸市議会の超党派の若手議員を中心に、近隣の地方議員も加わって結成。「第1弾」は昨年末に辻野弥生さんによる福田村事件に関する講演会でした。第1弾の際、平形さんは船橋、八千代での活動について特別報告する時間があり、「松戸橋でも軍による虐殺があった」などの話をしました。平形さんの話ではじめて地元の事件を知ったことで、第2弾が準備された、と思っています。

問い合わせ先は画像のチラシ(pdfファイルはこちら)にあります。ともに松戸市議会議員で、会派は工藤さんは社民党、ミールさんは日本共産党です。

2024年3月10日日曜日

「四国新聞」記事と年表で読む福田村事件

 「四国新聞」記事と年表で読む福田村事件

四国新聞は、香川県をエリアとする日刊紙です。同社のホームページによれば、「発行部数は約20万部。県下の普及率は約6割という圧倒的なシェアを誇っています」といいます。代表取締役は平井龍司氏です。龍司氏は、2018年10月に発足した第4次安倍改造内閣で情報通信技術(IT)政策担当大臣として初入閣した平井卓也元衆議院議員の弟です。また、卓也氏は四国新聞社の取締役を2000年1月まで、1987年11月より1999年まで西日本放送代表取締役社長を務めている。

■2000年7月10日記事(画像2-1および2-2参照)


・記事は広告を除き1面の前面を占める。冒頭に、「デマが飛び交う首都周辺で、六千人を超える朝鮮人と六十人近い日本人が虐殺された。その中に、県人が含まれていたことは、あまり知られていない」と書かれている。

・同年3月30日に設立した香川県の「千葉福田村事件真相調査会」に呼応し、7月2日に千葉県で設立した「福田村事件を心に刻む会」について。千葉の設立総会には四国新聞以外に「取材に訪れる社はなかった」と書かれている。

・「概要と経緯」は、元高校教諭の石井雍大さんらの研究成果を基にまとめられている。

・さらに石井雍大さん(県歴史教育協議会会長)のインタビュー「目に見える慰霊急げ」が掲載されている。


*この記事、四国新聞の「シリーズ追跡」はアーカイブされている。「福田村事件」のこの記事は以下のURLで

https://web.archive.org/web/20140816211344/http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/098/

*「シリーズ追跡」では2000年6月5日に「解放・人権センター完成へ」を掲載している。アーカイブ記事は以下のURLで

https://web.archive.org/web/20110125035218/https://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/095/




■2003年7月24日記事


・同年3月30日発行の『福田村事件の真相 第三集』奥付では、千葉福田村事件真相調査会会長は「中嶋忠勇」とあるが、記事では「高畠郵司会長」となっている。3月末から7月の4か月足らずの期間に人事の変更があった。

・慰霊碑の設置場所も現在地に決定している。

・香川の調査会は慰霊碑建立後に解散、調査は人権研究所が引き継ぐとある。

・千葉の刻む会も解散し、資料館の建設などを目指す運動を新たに展開するとある。


■2003年9月7日記事


・方言などから朝鮮人と「間違われて殺された」のではなく「真相調査会などの調査で、日本人と知った上での虐殺だったことが判明した」と断定されている。

*2000年7月10日記事のように、香川県では部落解放同盟も組織的に真相調査に参加している。慰霊碑の除幕式を報じた「解放新聞(香川版)」では朝鮮人と間違われて殺されたという「朝鮮人誤認説」は「まるで犠牲者に責任を転嫁するような」説であると指弾し、さらに「しかし他に類似事件はない。」と断定、「全国各地から上京していた人は相当な数になるが、他に方言誤認事件は問題になっていない」とし、2000年記事との変化が著しい。「解放新聞(香川版)」は福田村事件追悼慰霊碑保存会のブログで閲覧できる。URLは以下。

https://1923fukudamura-hozonkai.blogspot.com/2022/11/80-1.html

■記事から離れて

1924年の控訴院判決の報道以降、1983年9月1日に発行された『いわれなく殺された人びと』(千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼調査実行委員会編集/青木書店刊)まで、福田村事件を日本社会で知られることはなかった。同年8月、同実行委員会のメンバーで千葉県歴史教育協議会の平形千恵子さんが石井雍大さんに事件の情報が伝えられ、香川県での調査につながる。年表(辻野弥生さんの旧著)をみると、この調査が遺族、被害者側の活動が行政を動かしていったと読める。この活動は1988年の野田市訪問で途絶えている。この訪問時に被害者側は野田市教育委員会に慰霊碑建立を再度求めている。


1999年11月、香川の調査団22名が事件現場や野田市を訪問し、これに千葉の関係者が合流する。これをきっかけに刻む会の組織化につながったのであろう。



千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会 編『いわれなく殺された人びと : 関東大震災と朝鮮人』,青木書店,1983.9. 国立国会図書館デジタルコレクション
 (参照 2024-03-10)

*2024年8月24日、四国新聞「解放・人権センター完成へ」の記事を追記した。

2023年8月7日月曜日

『千葉県の歴史』による「水平社」「関東大震災と朝鮮人虐殺」の記述

 『千葉県の歴史 通史編:近現代2』(2006年3月)

第一編 大正デモクラシーから政党内閣の終焉へ
第1章 大正デモクラシー期の千葉県
第三節 大正デモクラシーと関東大震災

一 さまざまなデモクラシー

 自由教育の実践(略)
 水鳥川安爾の自由教育(略)
 青年団・処女会運動の新展開(略)
 

 94頁
 水平社と部落解放運動

 江戸時代に幕府によって「えた」「非人」などと呼ばれる賤民身分に位置づけられ、苛酷な差別を受けてきた人々は、一八七一(明治四)年の「解放令」によって、その呼称が廃止され、身分・職業とも平民と同じとされた。しかし、実際にはその後も就職や結婚などでいわれのない差別が続き、被差別部落の人々は困窮した生活を強いられた。政府はそのような被差別部落の人々が、各地で米騒動に参加したことに衝撃を受け、一九二〇年代に入ると「同情融和」の立場から差別の解消をはかろうとする部落改善策に着手した。これに対して、第一次世界大戦後の世界的なデモクラシーの風潮や労働・農民運動の高まりのなかで、みずからの力 で差別からの解放を勝ち取ろうとする自覚をもった被差別部落の人々は、二二 (大正十一)年三月、全国水平社を結 成した。水平社は、「人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向って突進」することを綱領にうたい、「われわれがエ タであることを誇りうるときがきたのだ」と高らかに宣言した。これを契機に部落解放運動が全国各地の被差別部落 に急速に広がっていった。


 千葉県では、二三年末ごろから、東葛飾郡関宿町(野田市)において、水平社支部を結成しようとする動きが活発化した。同町は県最北端に位置し、利根川・江戸川の分岐点にあって、河川をはさんで埼玉・茨城両県に隣接しており、もともと対岸の地域と密接な交流があった。こうしたなか埼玉県水平社社員らによる積極的な働きかけもあって、翌二四年四月に同町の被差別部落の人々は大会を開催し、水平社支部の結成を決議した。しかしこのときは、区長が反対したため支部結成にまではいたらなかった。

 ところが、五月十三日、被差別部落の人々に対する自動車運転手の失言問題をきっかけに、差別糾弾運動が盛り上がり、十五日に四九名の賛成者を得て、千葉県水平社が組織されることになった。執行委員長杉本定吉 はじめとする役員が選出され、規約綱領も決定された。さらに九月二十五日、同町の小学校での児童のけんかに端を発した校長の失言問題がおこると、被差別部落の人々は関東水平社本部の支援のもと、同盟休校も辞さないとする強硬な差別糾弾運動を展開して、十月四日に差別撤廃講演会を小学校で開催した。 そして講演会後に町内で千葉県水平社の発会式が挙行された。

 関宿町が部落解放運動の中心となりえた理由としては、運動のさかんな埼玉県の水平社から大きな影響を受けたことに加えて、隣接する野田町 (野田市)で二三年に関東醸造労働組合の指導のもとに野田醤油の労働争議がおき、労働者として働いていた同町の被差別部落の人々が争議に積極的にかかわっていたことがあげられる。

 二三年三月に県が実施した調査によれば、県内の被差別部落の数は、千葉郡二、市原郡三、東葛飾郡八、印旛郡二、長生郡一、山武郡二、香取郡二、君津郡六、夷隅郡四、安房郡四の合計三四で、その戸数人口は五一八戸・三〇八七人であった。このうち、東葛飾郡の戸数人口は、二七三戸・一七三〇人で最も多かった。

 二五年四月の関宿町町会議員選挙において委員長杉本定吉が当選するなど、同町では一定の組織的活動がみられたが、他町村の被差別部落に対する積極的な宣伝活動や他の組織・団体との提携活動は行われなかった。また同年二月ごろ、群馬県水平社執行委員長坂本清作らが成田不動尊と宗吾霊堂に参詣したさい、印旛郡酒々井町の被差別部落の人々に水平社への加盟を勧誘したが成功しなかった。全県的にみると、東葛飾郡をのぞいて水平社による部落解放運 動が組織的に展開されたところはほとんどなく、関宿町の水平社支部の活動も二八(昭和三)年の終わりごろまでには事実上終息した。

 これに対し二九年三月、酒々井町では、「同胞相愛」の趣旨にのっとり、「尊皇護国」の大義にしたがい国運の進運 と国民精神の統一をはかることを目的として、町長芳太郎が会長となって融和団体昭和会が結成され、住宅改善、共同耕作地の設定、防火・衛生設備の完成などの事業を展開した。このことは、部落差別を解消する取組みにお いて、行政当局と町内有力者が一体となって主導する官民一体の融和運動が主流となったことを象徴的に示すものであった。


二 関東大震災の被害と朝鮮人虐殺
 地震の発生と被害(略)
 避難・罹災者の救護(略)
 復興への対応(略)

 104頁
 続発する朝鮮人虐殺事件

 九月一日の午後四時ごろから翌二日にかけて、東京・横浜地方の罹災者の間に、社会主義者や朝鮮人が暴動をおこし、各地で放火・暴行を行い、井戸に毒を入れているなどとする流 言蜚語が流布 した。県内でも、江戸川をはさんで東京に隣接する船橋・市川・松戸・千葉などでは、罹災者が数多く避難してきて おり、通信網が寸断され情報がとだえた状況のなか、うち続く余震におびえ、不安をかきたてられた人たちの間で、 この流言蜚語はまたたく間に広がっていった。

 三日午前には、寸断された通信網のなかで、残った数少ない通信施設であった東葛飾郡塚田村行田(船橋市)の 海軍無線電信所船橋送信所から、内務省警保局長名で各府県知事にあてて、「東京付近の震災を利用して朝鮮人が各 地に放火し、不逞の目的を遂行しようとしている。現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注いで放火する者がいた。すでに東京府下は一部に戒厳令を施行したが、各地においても十分細心な視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密な取締りを加えられたい」とする電報が発せられた。またこの日から総武本線が復旧して、列車の運行が再開されたことから、千葉以東・以南の各地へさらに避難民が押し寄せた。

 こうした事態に呼応して、各地で在郷軍人会・消防団・青年団を中心に治安の維持にあたる自警団が組織された。たとえば源村(東金市・山武市)では、四日に、村内各区長に対し、急報として「朝鮮人侵入に対する警戒方の件」を通達している。そこには、「本日、八街駅、日向駅で下車した朝鮮人は、いずれも行動 不穏で、捕えた者のなかには逃走した者もいた。このさい相当の 警戒を加え、あとで後悔しないように在郷軍人会、消防団、青年 団などと協定のうえ、配慮していただきたい」と記されており、 行政当局が自警団の組織化を積極的に主導していたようすがうか がえる。



 そして、この自警団が中心となり、各地で朝鮮人を殺害する事件を引き起こしていった。千葉県での自警団による朝鮮人虐殺 は、九月三日午後四時ごろ、東葛飾郡馬橋村(松戸市)馬橋停車場付近で、朝鮮人の男性六名を日本刀・槍・鳶口などで殺害した 事件、同午後五時ごろ、同じく馬橋村新作地内で男性一名を電柱に縛りつけたうえ鳶口で殴打殺害した事件を最初として、翌々日にかけて、表9にみるように流山町(流山市)・浦安町(浦安市)・我孫子町(我孫子市) 八坂神社境内・香取郡滑河町(成田市)停車場・船橋町(船橋市)警察署前・同町九日市・中山村(市川市)若宮北方十字路付近・千葉市であいつい だ。滑河・千葉の事件をのぞき、すべて東葛飾郡内で発生している。同郡は東京に隣接し避難者が多かったことも一 因であろう。

船橋町での事例

 船橋町は県内でも虐殺事件が多発したところである。九月三日、罹災者の収容所となっていた船橋小学校で、避難していた朝鮮人七名のうち一名が爆弾を所持していたとして警察に引き渡される事件が あり、これが四日にあいつぐ船橋での虐殺事件のひきがねとなった。事実は、爆弾ではなく「砲丸の模型の焼けたも の」であったが、この事件のうわさが住民の恐怖感をあおり、朝鮮人に対する虐殺へと駆り立てていったのである。 九日市(船橋駅北口付近)で四日に発生した事件は、北総鉄道(東武野田線)の敷設工事に従事していた朝鮮人労働 者が犠牲となり、 その数は政府調査によると三八名、目撃証言では、二十数名から五十数名とされ、県内最大のものであった。事件は、鎌ヶ谷町(鎌ヶ谷市)粟野の自警団が、沿線各地に設置された飯場を拠点に働いていた朝鮮人労働者を行田の海軍無線電信所へ連れて行き引き渡そうとしたが、門前払いされたため、船橋警察 署に連行する途中で発生した。

 当時船橋警察署に勤務していた渡辺良雄の回想によると、署長から「北総鉄道工事に従事していた朝鮮人が、鎌ヶ谷方面から軍隊に護られて船橋に来るが、船橋に来ると皆殺しにされてしまうから、途中で軍隊から引き継いで、習志野の捕虜収容所に連れていくように」と命じられ、数人の警察官と出かけたところ、天沼(船橋市海神)付近で一 行に出会った。そして引渡しを交渉しているとき、船橋駅付近で列車を止めて捜索していた自警団や、避難民の集団 に発見され事件がおきたという。そのようすはつぎのようであった。

警鐘を乱打して、約五〇〇人 五〇〇人くらいの人たち の人たちが、手に竹槍や鳶口などを持って押し寄せてきた。私は、ほかの人たちに保護を頼んで、群集を振り分けながら、船橋警察署に飛んでもどった。署に着いて元吉署長にその状況を 報告すると、署長から「警察の力が足りないのでしかたがない。引き返して、状況をよく調べて来てくれ」と命じられた。私がすぐ引き返していくと、途中で、「万歳!」「万歳!」という声がしたのでもう駄目だと思った。現場に行ってみると、地獄のありさまだった。保護にあたっていた警察官の話では、「本当に、手のつけようがなかった」とのことであった。調べてみると、女三人を含め五三人が殺され、山のようになっていた。

 習志野の捕虜収容所とは、県と陸軍とが協議して朝鮮人の「保護収容」施設として使用することにした陸軍の高津廠舎のことであろう。列車まで止めて、朝鮮人を探し出そうとしていたところにも、当時船橋の自警団がいかにいきり立ち、殺気立っていたかが伝わってくる。

 軍隊による虐殺事件

 流言蜚語が広がるなか、九月二日に東京市と東京府下の一部に戒厳令が施行され、三日神奈川県に、四日には埼玉・千葉両県にも拡大された。八日、関東戒厳司令官の福田雅太郎の名で発せられた告諭では、「罹災者がしだいにこの地方に入り込むにしたがって、いろいろな虚報流言が行われ人心を不安にするのを取り締まるのと、必要な場合には軍隊をもって治安を維持し救護にも従事するためである」と、戒厳令施行地域の 拡大の理由を流言蜚語の取締りと軍隊による治安維持にあるとした。同時に関東戒厳司令部は、朝鮮人に対する暴行 など「無法の待遇」をなすこと、朝鮮人が「悪い企てをしている」というようなうわさに惑わされることのないよう注意をうながした。これをうけ、成東町では同日、佐倉歩兵第五七連隊の将兵二〇名が来着し、自警団にかわって治安秩序の維持取締りに従事することになった。


 軍隊が治安維持を担当するようになり、自警団による集団的な虐殺事件は鎮静化に向かった。しかし、軍隊自身も虐殺にかかわっていた。表10は、司法省からの依頼により陸軍当局が調査した千葉県下の軍隊による殺害事件の事例をまとめたものである。これだけでも、習志野騎兵連隊所属の兵士らによって一二人の朝鮮人と八人の日本人が殺害されている。県内の部隊は、県外でも虐殺に関与していた。 習志野騎兵第一四連隊と市川町の野戦重砲兵第一連隊の将兵は、九月三日に東京府南葛飾郡大島町(江東区)で、約二〇〇人の朝鮮人(中国人との見方もある)を殺害してい るし、習志野騎兵第一三連隊の将兵は、五日に亀戸警察署内で労働運動家の平沢計七・川合義虎らを殺害した(亀戸事件)。十二日、僑日共済会会長として在日中国人の救済活動などにあたっていた王希天を、中川にかかる逆井橋(江東区・江戸川区)付近で殺害したも野戦重砲兵第一連隊の将校らであった。

 表10の事例は、いずれも「適法行為」として処理され、関係者はいっさい責任を問われなかった。たとえば、九月四日の南行徳村(市川市)における二つの事件は、騎兵第一五連隊の兵士が、朝鮮人を習志野の騎兵旅団司令部へ連行する途中に小石や棍棒で暴行されたため、やむをえず射殺したとされている。仮にこのような乱闘さわぎがあったとしても、それだけで殺害に正当性があったとはとうてい認められない。また、表10の事例だけが、県下の軍隊による虐殺事件のすべてではない。教員・地方公務員・学生らによって一九七八(昭和五十三)年に結成された 「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」は、関係者の聞取り調査や日記の発見などにより、習志野騎兵連隊が、朝鮮人を「保護収容」していた習志野収容所から「不逞」とみなした者を連れ出して殺害したり、千葉郡大和田町(八千代市)の諸集落に引き渡しそこの住民に殺害させた事実を掘り起こしている。

 また、朝鮮人に対してだけでなく、日本人が朝鮮人と誤認されて殺害される事件も発生した。東葛飾郡福田村(野田市)では、九月六日 に香川県から来ていた薬の行商人の一行一五名のうち、幼児を含む九名が自警団によって惨殺されている。一行は、被差別部落の人々であった。この事件は、聞き慣れない方言のため朝鮮人と間違われたことによるとされているが、近年「福田村事件を心に刻む会」などによって真相の究明が進み、行商人への差別的偏見やよそ者排除の意識が原因との見方も出されている。

 県内の自警団関係の事件については、朝鮮人六二名を殺害、日本人約七〇名を傷害ならびに殺害したとして、十月になって一六件が立件され、一五一名の容疑者が検挙収監された。事件は虐殺行為の加害者が特定できないことが多く、容疑者はその一部にとどまった。裁判も殺人事件であるにもかかわらず、懲役二、三年で執行が猶予される例が多く、殺人罪としては軽い判決であった。ここにも朝鮮人に対する拭い難い民族差別の一面をかいまみることができる。

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『千葉県の歴史 通史編:近現代2』(2006年3月)

大正から昭和戦前期までの本県の歴史を4編に分けて記述しています。
https://www.pref.chiba.lg.jp/bunshokan/contents/chibakenshi/no7.html

主な目次

序章
第一編 大正デモクラシーから政党内閣の終焉へ
 第1章 大正デモクラシー期の千葉県
 第2章 政党内閣下の千葉県と昭和恐慌
 第3章 満州事変と県政の転換
第二編 産業の発展と都市化
 第1章 成長する産業
 第2章 労働争議と社会運動
 第3章 教育・文化と暮らし
第三編 都市化の波及と農漁村社会
 第1章 農業生産の変遷と地主経営
 第2章 変貌する農村社会
 第3章 漁業と漁村の生活
第四編 戦争と県民
 第1章 軍郷千葉と翼賛体制
 第2章 戦時統制下の諸産業
 第3章 戦時色に染まる教育・文化と暮らし
 第4章 戦争末期の千葉県

東京新聞 こちら特報部に「検見川事件」掲載

 日本人が日本人を集団で殺害…関東大震災直後の忘れられた事件
現代に通ずる差別意識と偏見の暴走

2023年8月7日 12時00分

 人々に忘れられた虐殺がある。関東大震災直後に千葉県検見川町(現・千葉市花見川区)で、暴徒化した自警団に「不逞ふてい鮮人」と決めつけられ、沖縄をはじめとする3人の地方出身者が殺害された「検見川事件」だ。背景には、在日朝鮮人への蔑視にとどまらず、異質な存在それ自体に対する差別感情が見え隠れする。震災から間もなく100年。依然としてデマを妄信し、排他意識を振りかざす現代の日本人に与える教訓は大きい。(西田直晃)

記事の全文